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BOAT&YACHT

WeimarGermany

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『若きウェルテルの悩み』で欧州全域に文名を轟かせたゲーテその後は終の住処となるワイマールの街に移り、大作『ファウスト』などの著作を残した 

photo & text: Hidehiko Kuwata

ドイツ中部のテューリンゲン州に位置するワイマールは、ワイマール憲法やワイール共和国など世界史に登場する輝かしい歴史と多数の偉人を輩出した、歴史的文化が花開いた場所だ。「古典主義」、「バウハウス」、「音楽」を基礎に、現在のワイマールにはかつての栄華と世界遺産、欧州の歴史がぎっしりと詰まっている。詩人ゲーテとシラーの家、大公妃アンナ・アマーリア図書館、バウハウス100周年を記念して2011年にリニューアルオープンした「バウハウス博物館」など、見所は多い。 

フランクフルトからドレスデンまで続く「ゲーテ街道」のハイライトであるワイマールは、ゲーテ、シラー、ヘルダー、ヴィーラントなど、欧州の精神史に大きな影響を与えた重要な人物たちが暮らした街である。文豪ゲーテは生涯のおよそ3分の2をワイマールで 過ごし、彼を訪ねて盟友シラーをはじめ多くの著名人がこの街を訪れ、ここに古典主義が花開いたのである。そんな輝かしい歴史をたたえて、ワイマールは「古典主義の都」として世界遺産に登録されている。

1775年、26歳のゲーテはワイマール公国のカール・アウグスト公に招かれ、ワイマールへやってきた。翌年、「ガーデンハウス」と呼ばれるイルム公園内にある小さな住居を与えられ、ワイマール公国の政治機関であった枢密院の参事官として、鉱山の開発や道路建設、教育や芸術の振興といったさまざまな公共事業に携わった。

1782年、33歳になったゲーテは街の中心のフラウエンプラン広場にある1707年から1709年にかけて建設されたバロック式の大きな邸宅に引越し、ゲーテ自らが案を出して改装を施している。ゲーテ自身や家族が住んだ邸宅というよりも、ここで歴史に残る名作を執筆し、当時の文化人を招いて様々な議論を行った、いわゆる文化サロン的な存在としても機能した。 

現在、このゲーテの家は博物館として一般公開されていて、ゲーテの書斎や図書室、居間、台所、寝室などを見学することができる。パステルイエローの外観を持つ邸宅の内部には、淡いブルーやグリーン、ピンクに塗られたエレガントな18室の部屋があり、壁面を飾る絵画、部屋に置かれた彫像、調度品などで彩られたそれぞれの空間からは、ゲーテの芸術への高い関心と美意識がうかがえる。

邸宅のフラウエンプラン広場に面した側には、エレガントな居間、社交室、コレクションルームなどがあり、作業エリアのある邸宅の裏側は広々とした庭園に面している。邸宅の両サイドは上階の2つの通路で結ばれており、この通路は馬車小屋と噴水のある中庭を結んでいる。ゲーテはここで家族だけでなく、友人であり助言者であった画家のヨハン・ハインリッヒ・マイヤーなど、数人の使用人や同居人と共に暮らした。 

ゲーテの芸術と自然のコレクションは拡大を続け、結果、現在保存されているほどの規模になった。それらが展示されている18室の部屋には、当時の家具や家財道具だけでなく、個人的な思い出の逸品や、ゲーテが収集した手書きのデッサン、絵画、彫刻、ブロンズ像、マジョリカ、コイン、メダイヨンなど、あらゆるコレクションが展示されている。なんと言っても見所は、『魔王』や『ファウスト』などの名作が誕生したゲーテの書斎で、配置されている上質な調度品と隣接する私設図書館を眺めることができる。 

ゲーテの妻クリスチーネが主に世話をしていた邸宅の裏にある庭園は、ここに暮らす大家族に果物や野菜を供給する役割も果たしていたという。1794年頃、ゲーテは定期的に植物学の実験を行い、いくつかの花壇に計画的に植栽を施した。1817 年、ゲーテはこの庭園を東に拡張し、鉱物コレクションを保管していたアッカーヴァントのガーデンハウスも手に入れている。 

旅やイタリアでの長期滞在を除けば 、ゲーテは1832年に83歳で亡くなるまでの50年間をこの邸宅で暮らした。そして代表作である長編戯曲『ファウスト』を書き上げた翌年の 1932 年、ゲーテはベッドの脇にある 肘掛け椅子でその生涯を終えた。ゲーテが臨終の際に残した「もっと光 を」の言葉はあまりにも有名だ。ゲーテが息を引き取った寝室も当時のまま残されている。 

ワイマールの街とバウハウス博物館 

ワイマールはベルリンの南西約 200 キロに位置する、人口約6 万人の 小さな街だ。18 世紀末のワイマール公国時代、アウグスト大公の保護のもとバッハが宮廷音楽家を務め、ゲーテやシラーたちが古典主義の花を開かせた歴史を持つ 。それから約1世紀を経て 、第一次世界大戦に敗れたドイツは1919年にワイマールで 国民議会を開き、休戦条約を受け入れ共和国の道を選択した。この会議が開かれた場所が、かつてゲーテやシラーらが自作の演劇作品を上演した「ワイマール国民劇場」で、ここでワイマール憲法が制定された。そしてこの憲法に基づいた1919年から ’33 年までのドイツ共和国を「ワイマール共和国」と呼ぶことになったのである。 

ワイマール共和国は世界的に文化が花開いた「黄金の1920年代」においても際立った存在となった。その一つの象徴が、モダニズムを代表するドイツの建築家で、近代建築の四大巨匠の一人とされるヴァルター・グロ ピウス(1883 ~ 1969)を初代校長に招いて、産業と芸術を融合させようと設立された「国立バウハウス(総合芸術学校)」である。やがて訪れる 大量生産時代を見据えて、シンプルなデザインと機能主義を追求し、取り扱われる分野は建築から家具、インテリア、工芸品まで多岐に渡った。無駄な装飾を廃して合理性を優先したバウハウスの取り組みは、いわゆるモダニズムの源流となり、現在「モダン」と称される製品デザインの基礎となったのだ。

1995 年にオープンしたワイマールの「バウハウス博物館」は、国立バウ ハウス創立 100 周年の 2019 年 4 月に新しい建物に移転し、バウハウスの 歴史、背景、影響力などを見事にアピールする歴史的なコレクションが展 示されている。中でもバウハウスの形成期に由来するオリジナル作品を集 めた世界最古のコレクションは圧倒的だ。20 世紀でもっとも影響力のある 芸術とデザインの一つであるバウハウス(特に初期段階)についての「現 在、および将来の生活環境においてどのように機能するのか」、という問題 提起を含めた展示方法はじつにユニークで印象に残る。P.B.